『ありさ 土蔵の濡れ人形  第二章』
 
                    Shyrock:作

第九話「二つに折れた煙管」

 痒み止めとしてドクダミの汁を塗ってくれた九左衛門のことをほんの一瞬『善い人』
と思ったありさであったが、翌日そんな感情がすべて吹き飛んでしまうような災難が
ありさの身に降りかかる。

 その日、ありさは奉公人たちの朝食が終わると、いつものようにその片付けと洗い
物に追われていた。
そんな折、女中頭のよねがやって来て、

 「ありさ、おはようさん。だいぶ慣れてきたみたいやな」
「おはようございます。おかげさまでだいぶ慣れました」
「洗い物が終わってからでええんやけど、今日はだんさんの部屋の掃除をやってくれ
るか?いつもだんさんの部屋の掃除をやってる子が熱出して寝込んでしもたんで、今
日だけ代わってやって欲しいんや」

 「はい、分かりました……。でもだんさんの部屋の掃除を下女中の私がやってもい
いのですか?」
「ええんや。と言うか、だんはんが直々に『ありさにやらせなはれ』と言うたはるん
で頼むわ」
「そうなんですか。分かりました。洗い物が終わったら掃除に行きます」
「朝ご飯まだやろ?朝ご飯食べて一息ついてからでええからな」
「ありがとうございます」

 大阪で何の縁故もなく頼る者もないありさにとっては、よねのそんな何気ない一言
がとても嬉しかった。
ありさは洗い物が終わると、台所の隅でほかの下女中たちと遅い朝ご飯をとり、間も
なく九左衛門の部屋へと向かった。

 九左衛門はすでに店に出たようで部屋にはいなかった。
ありさとしては、彼と顔を合わせたくなかったので不在と言うのはありがたかった。
廊下側の襖を開けるとそれほど広くはないが立派な前栽(せんざい)があり、石灯籠
が据えられ、灯障りの役木として松の古木が配されている。

 掃除を始めると、ふと数日前の辛い出来事が脳裏に浮かんできたが、嫌なことはで
きるだけ忘れようと思った。
部屋の掃除がほぼ終わりかけた頃、ありさは部屋の隅に煙草盆が置いてあることに気
づいた。

 煙草盆とは、喫煙に必要な火入れ、灰落し、煙草入れ、煙管(キセル)などを一つ
にまとめた入れ物で、煙管で煙草を吸う者には大変重宝なものであった。
盆形の簡易な物もあるが、九左衛門が使用していたのは木製の箱型で蒔絵が施された
美しいものでかなり高価な物であった。
持ち運びしやすいよう上部に手提げが付いている。

 灰皿の掃除をしようと思ったありさは、灰皿に手を伸ばした時、手前の煙管に手が
触れ煙管が畳に落としてしまった。
(コトンッ……)
「あっ……しまった!」

 煙管を拾って見てみると、真ん中でポキリと二つに折れてしまっている。
煙管は煙草好きな九左衛門にとってきっと大切な物であろう。
ありさは二つに折れてしまった煙管をてのひらに乗せ泣きべそをかいた。

 「あぁ……どうしよう……また叱られるわ……この前大切なお茶碗を割ってしまっ
て、また今度はだんさんの煙管を壊してしまった……」
ありさは二つに折れてしまった煙管を持ってシクシク泣いた。
「とにかくすぐに謝らないと……」

 ありさは九左衛門がいる店先へと向かった。
店先にはすでに数人の客が訪れ番頭たちが対応している。
店の一番奥に九左衛門の姿があった。

 ありさが近づくと、九左衛門は「一体何の用だ」と言わんばかりに、ギロリとあり
さの方を見た。
恐る恐る近づき、ありのままを九左衛門に伝えペコペコと謝った。

 怒鳴られることを覚悟していたが、九左衛門の反応は意外にも穏やかだった。
おそらく来客中であったためだろう。
「何やと……?よっしゃ分かった……おい、もっと近くに来い……」
 
 九左衛門はありさの耳元でささやいた。
「夕飯終わったら土蔵に来なはれ……風呂入ってからでええで……ぐふふふふ……」

 不気味な九左衛門の低くかすれた声に、ありさは背筋に寒いものを感じた。
おおよそ何が待ち受けているか察しが付く。
どんよりとした陰鬱な空気がありさを取り巻いた。

◇◇◇

 ありさが土蔵に着いた時は午後九時を十分過ぎていた。
九左衛門はすでに来て待ち構えていた。

 「よもや煙管を壊しよるとはなあ」
「本当にすみません……」
「わざと折ったんとちゃうか?」
「そんなこと絶対にしません!箱を動かした時に煙管が落ちてしまったんです……」
「ほんで壊れたちゅう訳か」
「はい」

 「あれは結構高かったんやで」
「働いて返します!がんばって働きます!」
「茶碗と合わせたら一生働いても無理や」
「そんな……」
「せやけど方法はあるで」
「どうすればいいのですか?」

 「簡単や。身体で返したらええんや。そやなあ、一年間おまえの身体はわしの自由
にさせてもらうわ」
「そんなっ……」
「文句あるんやったら即刻耳揃えて金返してもらおか!?」
「それは……」
「でけへんやろ?でけへんのやったら、観念してわしの言うこと聞かんかい」
「……」

 ありさは涙を浮かべながら小さくうなずいた。
いや、うなづくしか無かったのだ。

 「分かったらそんでええんや。それはそうと今日はおまえのためにおもろい仕掛け
を用意したんや、奥の柱を見てみ」
「……?」

 土蔵の一番奥は商品置き場になっているため少し広い空間があり、両端には太い柱
がある。
その間を一筋の麻縄が床と水平になる形で、ピンっと宙を張っている。
麻縄の長さは八間(約14.5メートル)ほどあり、高さは腰より少し高い程度だ。
これで一体九左衛門が何を企てているのか、ありさには全く見当がつかなかった。

 
                

   この作品は「愛と官能の美学」Shyrock様から投稿していただきました