『ありさ 土蔵の濡れ人形  第二章』
 
                    Shyrock:作
第一話「投げ文」
 
 春というには少し遅く、夏というにはまだ早い。
五月に入ったばかりの船場は今日も活気に溢れ、人々の往来が絶えることがなかった。
船場は大坂の町人文化の中心となったところで、河川と堀川に囲まれた四角形の地域
で、東は上町、南は島之内、西は下船場、北は中之島に接している。

 そんな船場のど真ん中にある呉服問屋の霧島屋に、早朝投げ文があった。
投げ文を見つけたのは開店準備をしていた丁稚の音松であった。
投げ文と言ってもかつて江戸時代の番所に投げ込まれたような、紙を結んだだけのも
のではない。
きっちりと封筒に入っている。

 音松は早速小番頭の富七に投げ文をことを伝えた。
「小番頭はん、玄関にこんな封書が入ってましてん」
「これか?手紙みたいやな」
「開けてみまひょか?」

 封書には『旦那様へ』と宛名が記されている。
「開けたらあかん。これはだんさん宛やないか」
「せやけど気になりますわ」
「気になっても、他人宛ての手紙を勝手に開けたらあきまへん」
「はい、すんまへん。ところで誰からですやろか?」
「差出人は書いたぁれへんな。取りあえずだんさんに届けてくるわ」

 富七は手紙を持って九左衛門のいる部屋に向かった。
朝の挨拶をして襖を開けてみると、九左衛門は美味そうに煙管で煙草を吸っていた。

 「こんな早よからいったい何事や?」
「はい、さっき玄関に投げ文がおまして」
「投げ文?どっからや?」
「それが差出人は書いてないんですわ」
「ん?わし宛てにか……」
「はい、そのようですわ」

 九左衛門は訝しげな表情を浮かべながら封書を開けた。
 
 『女中のありさと山波商店の若旦那は深い仲』

「なんやと~っ……!?」
「まさか……あの子に限って……」
「山波商店いうたら道修町(どしょうまち)の薬問屋やったな……?」
「そうだす。確かかなり繁盛してたと思いますわ」

 九左衛門の顔が見る見る赤くなり、まるで鬼瓦のような形相に変貌した。
「むむむっ……絶対許さへん!」
「あわわわわ……」
怒り心頭に発する九左衛門を宥めることもできず、富七はただおろおろするばかりで
あった。

 「すぐにありさをここに呼べっ!」
「は、はいっ!」
富七は尻に火がついたような勢いで一目散にすっ飛んでいった。

 まもなく九左衛門の前に、全く事情の知らないありさが現われた。
「おはようござ……」
「この淫乱娘がっ!」
「……?」

 姿を現すやいなや「淫乱娘」と罵り烈火のごとく怒る九左衛門に、訳が分からずあ
りさは呆然と立ちすくんだ。

 「あるじの目を盗んで若い男と逢引きしてたとはな~!」
「あいびき?えっ……?何のことですか?」
「惚けるのもええかげんにしいや~!山波商店の若旦那とどんな関係や~!」
「そ、そんな人知りません!初めて聞く名前です!」

 投げ文がありさの目の前に突きつけられた。
「これでも知らんちゅうんか!」
記載されている内容に全然身に覚えがなく、ありさはただただ困惑するばかりであっ
た。

 「まったく知らない人です!これは何かの間違いです!」
「嘘ついたらあかんで。正直に白状するまで土蔵で頭冷やしなはれ」
「土蔵はもう嫌です!かんにんしてください!」
「かんにんでけへんな!わしはちょっと遅れて行くさかい、先いって鍵開けとき。ほ
れ」

 土蔵の鍵がありさの手元に放り投げられた。
「そ、そんなっ……嘘は言ってません!信じてください!土蔵だけは、土蔵だけは許
してください!」
「嘘かほんとかはじっくりと土蔵で調べたるわ」

 いくら身の潔白を主張しても信じてもらえない状況に、ありさは悲しくなってシク
シクと泣き出した。
「もし怖気づいて土蔵に姿見せへんかったら、どないなるか分かってるわな?」
「……」
「店から放(ほ)り出すからな」

 貧困で口減らしのため田舎から出てきたわけだから、家族のことを考えると容易に
田舎に帰るわけにはいかない。
かといって大阪に伝手があるわけでもなく、十六の娘が一人で生きていくにはあまり
にも過酷であった。

 店から追い出されたら行く宛てがないのだ。
いくら辛くてもここでがんばり抜くしか生きていく術がなかった。

◇◇◇

 ありさは土蔵の鍵を開けても中に入らず表で九左衛門を待った。
ふと遠くを眺めると、東側に大阪と奈良の境にある生駒山を扇ぐことができる。
高い山ではないが稜線が美しくなだらかで、古来大和の国と浪花を結ぶ要所として人
々の目印にもなっている。

 雲一つない澄み切った青空はほんの一時ありさの心にやすらぎを与えた。
「お母さん、どうしてるかなあ……みんな元気かなあ……あぁ、会いたいよぉ……」
ありさが郷愁に浸っていると、それをかき消すかのような濁声が聞こえてきた。
ありさに恐怖が甦った。濁声の主は九左衛門であった。
九左衛門の手元がキラリと光っている。刃物のようだ。


 
                

   この作品は「愛と官能の美学」Shyrock様から投稿していただきました