『球 脱獄(推敲版)』
 
                    Shyrock:作

第2話 家宅侵入

 足音を忍ばせ廊下をゆっくりと進む原口。
台所から聞こえてくる音に気づいて台所の手前でぴたっと足を止める。
(ん……? 誰かいるぞ……)

 聞こえてくるのはまな板の上で何かを刻む音であった。
原口は廊下の壁に背中をぴたりとつけて台所の様子を伺った。
(トントントン……)

 包丁を持っている人間を襲うなど愚の骨頂である。
ましてや相手は素人だ。
驚いて包丁を振り回すかも知れない。
あるいは大声で喚き助けを求めようとするかも知れない。

 原口は台所にいる者が包丁を置く頃合いを計った。
(う~ん……誰だろう? 妻か? それとも……?)
顔が見えないので誰なのか分からない。

 まもなく包丁で刻む音が途切れ、「ジュ~ッ」とフライパンで炒める音が聞こえ
てきた。
(炒め物を作っているのだな? よし、今がチャンスだ)

 原口が巨体に似合わぬ身の軽さで、球の前に現れた。
球は驚きのあまり悲鳴をあげた。
「きゃあ~~~!」
「騒ぐな! 静かにしろ!」

 原口はまな板に乗せてあった包丁を奪い、球に襲いかかった。
「ひぃ~~~!」
球の首筋に包丁があてられた。
冷たい感触が恐怖のどん底に突き落とす。

 「おい、静かにしろ!」
「あぁぁ……あわわわわ……」
あまりに突然の出来事に、球は言葉を失ってしまった。

 「騒がなければ命までは取らない。分かったか?」
球はぶるぶると震えながら、ようやく咽の奥から声を絞りだした。
「は……はい……」

 「俺は今、警察に追われてる」
「……」
震えてしまってまともに返事ができない。

 「だからしばらくの間、ここで世話になるぜ」
「……」
「分かったら返事をしろ」
「は……はい……}

 原口は球の頬を包丁の背(みね)でぺたぺたと叩いた。
「今、一人か?」
「はい……」
「家族は?」
「旅行に行ってます……」

 正直に言う必要などなかったが、ついありのままを告げてしまった球。
もうすぐ親が帰宅する、というような機転を利かせた言葉が、今の球に浮かぶはず
もなかった。

 「ほう、旅行に行ってるのか? 娘のおまえを一人残して行ったのか?」
「はい……」
「で、いつ帰ってくるんだ?」
「え~と……あのぅ……今夜……今夜帰ってきます」
「嘘をつくな」

 原口は球をキッと睨みつけた。
「本当だわ。本当に今夜帰ってくるの」
「嘘はつかない方が身のためだぜ」

 原口は包丁をゆらゆらと揺すりながら凄んでみせた。
球のどぎまぎした態度から、その言葉が偽りであることを、すぐに見破ってしまっ
た。

 「本当はいつなんだ?」
原口はにやりと不敵な笑みを浮かべた。
しかし眼光鋭く球を捉えて放さない。
球はまるで蛇に睨まれた蛙のように、嘘をつけなくなってしまった。

 「四日後に帰ってくるわ」
「ふむ、四日後か。まだ先じゃねえか。まあ、その方が俺にとっては好都合だがな」
「あのぅ……お金……が目当てなの?」
球は恐る恐る尋ねてみた。

 「金か? はっはっはっ、ついでもらってやってもよいが、俺が忍び込んだ目的
は別にある」
「じゃあ、何なの?」
「俺は今、刑務所から脱獄してきた」
「えっ! まさか!?」

 「嘘じゃねえよ」
「……」
「さっきパトカーのサイレンが鳴ってたろう?」
「そういえば……」

目の前にいる男がまさか脱獄囚だとは、思ってもみなかった。
球は激しい恐怖に襲われた。

 「俺は脱獄した後、ダチ公ところに世話になろうと思っていた」
「……」
「ところが意外に早く警察が追いかけて来やがって、俺は逃げ場を失っちまったっ
てわけだ」
「……」

 「そんなわけで、ここに転がり込んで来たってことさ」
「……」
「いずれ出ていくけど、ここ一、二日、ここにお世話になるぜ」
「そ、そんな……」

 「おおっと、嫌だなんて言わせねえぜ」
原口は球を威嚇した。
「……」
「俺のいうことをちゃんと聞いてりゃ、危害は加えねえから安心しな」
「……」
「だけど、少しでも俺に歯向かったら、容赦はしねえぜ。いいか?」
「はい……」

 原口は台所で怯えながら突っ立っている球を見つめた。
「たしか料理中だったな。おい、俺にも何か食わせろよ。必死でずらかって来たか
ら腹が減ってるのも忘れちまってたぜ」
「炒飯だけど……」
「炒飯か。何でもいいや。早く食わせてくれ」
「分かった……」

 球は再びキッチンに向かった。
「あのぅ……包丁を返して欲しいんだけど……」
「ん? 包丁か? 料理に包丁はいるよな。だが今はちょっと無理だな」
「じゃあ、料理作るの無理だわ」
「無理か?」

 原口は調理場を覗き込んだ。
「なんだ。タマネギはほとんど切れてるじゃねえか。残りは丸ごと入れときな」
「……」
「何だ。不服か?」
「いいえ」
「じゃあ、俺のいうとおりにしな」
「……」

 球はフライパンに飯を入れ、そこに切り刻んだタマネギを放り込んだ。
さらに剥きエビを数尾入れ、かき混ぜた卵を二個分流し込んだ。
サラダ油、こしょう、醤油、それに塩を少々加えて炒めた。
香ばしい香りが漂ってきた。