『球 脱獄(推敲版)』
 
                    Shyrock:作

第1話 脱獄者

 刑法第九十七条
『裁判の執行により拘禁された既決又は未決の者が逃走したときは、一年以下の懲
役に処する。』

◇◇◇

 「はぁはぁはぁ……、看守の目を盗んでうまく逃げ出せたが、さて、この先どこ
に行けば良いのやら。駅に行ってもおそらく警察がうろうろしてやがるだろうし、
都内の叔父のところに行ってもたぶん匿ってくれないだろうよ。ちぇっ、仕方ねえ
や。とりあえず昔の仲間の所にでも転がり込むとしようか」
原口勲、まるで仁王のような強面だが、180センチをはるかに超える高身長で、
しかもがっちりとした屈強な肉体を持つ。

 幼い頃から家庭環境に恵まれず非行に走り、鑑別所や少年院暮らしが続いていた。
成人してからも悪癖は治まることなく、強盗、恐喝、傷害、強姦、強制猥褻等を繰
り返し前科が重なるばかりであった。

 そんな悪人の見本のような原口であったが、人をあやめなかったことだけが唯一
の救いと言えた。

 服役中の原口は看守の行動をつぶさに記録し、常々脱獄の機会を模索していた。
そしてついに決行の日がやって来た。

 原口は冷静沈着に実行し、ついに成功を収めた。
彼は走った。ひたすら走った。

 だが、追っ手はそんなに甘くはなかった。
(ウゥゥゥウゥゥゥ~~~~~~~~~~~~~~~~!)
 遠くでサイレンが鳴り響いている。

 「わっ!いけねえ!こんな所まで追っ掛けて来やがったか!くそっ、そう簡単に
捕まって堪るものか!絶対に逃げ切ってやるぜ!」

 原口は西陽を背にして無我夢中で駆け出した。
大通りを左に曲がると、道路幅員の狭い住宅地へと逃走していった。

◇◇◇

 小路球は現在18才。まだ高校生だが、持ち前の美貌とプロポーションから、某
有名ブランドの水着モデルとして抜擢されていた。
将来は大学へ通いながら、モデルの仕事も引続き行なうつもりでいた。
凛と張った涼しい目をした球は、両親の自慢の娘であった。

 その日、球は自宅に一人いた。
両親は結婚25周年記念で海外旅行に出掛け、4日後に帰宅する予定である。

 球は学校から帰ってから、着替えもしないでずっとピアノにかじりついていた。
コンクールを1週間後に控えていたため、寸暇を惜しんで練習に励んでいた。
そのため最近では水着モデルの依頼も断ることが多くなっていた。

 「もう5時ね。ぼちぼち夕飯の支度をしなきゃ。でも1人分作るって何かつまら
ないなあ。それにしてもお父さんとお母さんがいないと1日が長いなあ。どうして
だろう? こんな時、嫁いだお姉ちゃんでも帰ってきてくれたらいいんだけど、今、
子育てで忙しいからなあ」

(ポロン~ポロン~)

 発表曲はショパンの「幻想曲へ短調Op.49」の予定であった。曲の構成は自由なソ
ナタ形式で、ショパンの作品の中でも非常に大規模な作品である。
 球の部屋はピアノ用に防音工事をしてあるから、音が漏れる心配がなく安心して
練習することができた。

◇◇◇

 「はぁはぁはぁ、疲れた。心臓が破裂しそうだぜ。どこかに隠れなければ……」
原口は周辺を見廻した。
周囲はどちらを見ても立派な邸宅ばかりが建ち並んでいる。

 どうも高級住宅街に迷い込んでしまったようだ。
原口は思った。
(この際どこでもいいや。とり合えず警察の目から逃れなければ。しかし騒がれる
と困るから、留守宅がありがたいな……)

 原口はもう一度周囲を見廻した。
昔ながらの堂々とした和風建築が建ち並ぶ中、一軒だけ重厚な石貼りの外壁で西洋
のホテルか邸宅を思わせるような洋風の建物が目に飛び込んできた。

 原口は住宅の裏側に回り込んだ。
勝手口があるが当然鍵が掛かっている。
ドアの横に大きな窓があった。

 カーテン越しに中を覗いてみたが、人の気配はない。
(よし、この家にしよう。誰もいないようだし……)

 窓にはクレセントキーが掛かってる。
原口は年季の入った鞄の中からガラスカッターを取り出した。
二重ロックになっていない限り、クレセントキー周辺のガラスさえ切り落とせばガ
ラス戸は開く。

 原口は馴れた手付きで作業を始めた。
ガラス切りも熟練者が行なうとほとんど音がしない。

 ガラスは床に落ちることなく、受けていた布の中に滑り落ちた。
さすがにプロの技といえる。
五センチ四方の穴がぽっかりと開き、クレセントキーは簡単に開錠された。

 最近はサッシ窓の性能が上がったこともあって、戸車が転がる音はほとんどしな
い。
原口は足を忍ばせ室内に入り込み静かに窓を閉じた。

 そして穴の開いた部分には、まるでガラスと見間違えるほどの小さなパネルが貼
られた。
ガラスが切られたことを、外部から発見されにくくするためのものだ。

 原口が侵入した部屋は夫婦の寝室のように見受けられた。
部屋はきれいに整頓されていた。
「もしかして旅行中か? しめしめ、これはラッキーだぞ。ふっふっふっ……」

 原口は過去の経験からこの家の住人がしばらくの間、留守であると確信した。
だが熟練した原口ではあったが、一つだけ判断ミスをした。
娘の球がひとり在宅中であるとは想像もしなかったのだ。
原口は部屋から廊下に出た。

 ちょうどその頃、球はピアノの練習を中断して、夕食の準備に取りかかっていた。
台所で炊事をしていると、わずかな物音ぐらいでは案外気づかないものだ。
(トントントン……)
球は炒飯に入れるタマネギを刻んでいた。