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『見果てぬ夢』
とっきーさっきー:作
第17話 男の部屋に呼ばれて……
4月8日 火曜日 午後6時 岡本典子
2日後……
河添に呼び出された私は、メールに添付された地図を頼りに男が住むマンションへと
向かった。
高規格の道路に沿うように、つい最近完成したばかりの高層マンションが連なってい
る。
「えーっと、確か……このマンションよね……?」
私は、スマホに表示された地図と夕闇の空にそびえ立つ黒いシルエットを見比べなが
ら、納得するようにうなずいていた。
「やっぱり一流企業の課長さんにもなると、私たち庶民とは稼ぎが違うのよね」
新聞チラシの広告で見たことがある。
『新規分譲開始! 最上階の部屋は、なんと1億円!! 貧民には手の届かない、こ
の高さ! この絶景! この値段!』
……って、書いてあったような……なかったような?
「でも、こんなに同じ形の建物ばかりが並んでいて、自分のお部屋とかよく迷わな
いわね? 方向音痴の私だったら、たぶん無理だろうな。丸3日間くらい彷徨い続け
て『典子のお家どこぉっ?』て、泣いちゃうかも……ふふふっ」
建物の入り口で教えられた暗証番号を打ち、エレベーターに乗り、教えられたフロ
アー番号のボタンを押した。
私の嫌みな妄想は、結局、河添の部屋へ入るまで続いていた。
「わあー、本当に見晴らしがいいのね。海まで見えてる♪♪」
肩先に掛る髪が春の微風に軽く乱される。
陽が沈み、東の空から闇に包まれ始めている夕空を、私は最上階のベランダで眺めて
いた。
「典子が住んでいるのは、あの辺りだな」
隣で恋人のように寄り添う河添が、指先を私の視線に合わせて指し示した。
屏風のように立ち並ぶ高層ビル群の谷間で、ひっそりと佇む低層住宅の集まり。
それが長いビルの影に覆われて、いち早く闇の世界に埋没しようとしている。
「ここからの眺めってこんなに素晴らしいのに、どうしてこの前は、あんな高級ホ
テルに私を誘ったのよ? 勿体ないじゃない」
私は思い出したように話をしていた。
話し終えて不満そうに口を尖らせた。
指さした男の口調に滲み出た、蔑みを感じて……
気の利いた見返す言葉が見付からなくて……
「随分と細かいことを気にするんだな。俺としては、典子の崇高な自己犠牲の精神
に敬意を払ったつもりだが……それとも、これが庶民の金銭感覚ってやつか?」
「違うわ……これは家計を預かる女の金銭感覚なの。私はこれでも主婦ですから」
「主婦ねぇ……」
私の言葉に反応したのか? 右肩に河添の手を感じた。
そして、もう片方の手が上着のポケットをまさぐっている。
「では、主婦業に精を出している典子の、乱れた姿でも鑑賞してみるかな」
男の唐突な言葉が、ぐさりと胸に突き刺さる。
冷めていた河添の両目に淫靡な炎が灯り始めている。
ポケットから摘み出されたスマホ。
その薄っぺらくて縦長の画面が、私を恥辱するための道具に変化してる。
「こ、ここで? 再生するの?! よしてよ! 外でなんか恥ずかしいじゃない。ね、
部屋で……あなたのお部屋で……」
「ふふふっ、なにを今さら恥ずかしがっているんだ。俺は夜風に吹かれながら、典
子の痴態を鑑賞したいんだ。それに地上30階のベランダで、誰がどうやって覗くと
いうんだ? 聞き耳を立てるというんだ? まだ両隣りは空き家なんだぜ」
「でもぉ……やっぱり……下の階は、住んでいるんでしょ? こんなの嫌なの……
私は恥ずかしいの……って……?! えっ?! い、イヤッ! 消してぇッ、と、と
めてよぉッ! 恥ずかしい……」
河添がスマホを突きつけていた。
よく見えるように私の真ん前で、よく聞こえるようにボリュームをいっぱいに上げて。
『か、感じちゃう……ヒダのお肉に……ゆ、指が……指が絡みつかれてぇ……くっぅ
ぅん、はぅぅんんっ……!』
少し気取って主婦の顔をしてたのに。
夕闇のベランダで、元恋人との疑似ごっこをもう少しの間だけ続けたかったのに。
「お願い! 返してよぉ、返してってば!」
私は奪い取ろうと、両手を伸ばした。
阻止するように片手で高々と掲げられたスマホに、届かないのに指先までいっぱいに
伸ばして……
男は、目の下で私を見て低く笑った。
私の必死の両手を払い除けると、スマホをベランダの外に突き出した。
典子の恥ずかしい秘密の声を、吹き付ける風に乗せようとした。
風を通してどこまでも拡散させようとした。
もう……だめ……
みんなに聞かれちゃうかも。
下の階の人にも、そのまた下の階の人にも。
ううん、風に乗ってどこまでも拡がっちゃうかも。
私はしゃがみ込んだまま、両目を閉じて両耳も塞いでいた。
なんの覆いのない高層階のベランダで、なにも感じない空間を作ろうとしていた。
でも、それでも無理なの!
典子のハシタナイ行為を。
典子が大切な人を想いながら指を使った、ひとりエッチを。
頭の中で、映画のCMみたいに何度も再生されるの。
盛りの付いた獣のように叫ぶ典子の声が、耳元から離れてくれないの。
「イヤイヤイヤ、もう聞かないで……もう、見ないで……」
私はブツブツとつぶやいていた。
同じフレーズを独り言のように、お経を唱えるようにつぶやいていた。
情けないよね。
こうなることくらいなんとなく想定してたけど、やっぱり辛いし悔しい。
そう、私だって覚悟をしていた。
お花見の前日。河添からのメールに、震えながらOKしたときからこうなることは……
でもね。女にとって自分を慰める姿を異性に覗かれるのって、死ぬほど恥ずかしい
ことなの。
そうよ。あのときだって心の中の典子は泣いていた。
泣きながら一生懸命に感じたの。快感してたの。
エッチに指を動かして感じたかったの。絶頂したかったの。
大切な人には、哀しい涙は見せたくなかったから……
気持ちいい嬉し涙を見せたかったから……
こんな私って、安易な女だったのかな?
それとも、こんなの平気だよって顔をやっぱりしないといけないのかな?
無理を承知で……
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