『見果てぬ夢』

                            とっきーさっきー:作

第16話 伸ばした両手 届かない夢 その3

 (回想) 3月21日 金曜日 午後11時  岡本典子 

 私と河添は窓のない奥まった席を選ぶと、向かい合って座った。
午後11時を過ぎた店内は、ファミレスの名前にそぐわないほど閑散として、場違い
な大人の雰囲気を醸し出している。

 ウエイトレスが注文を訊き、二人の前に真っ白なコーヒーカップがセットされる。
それでも沈黙が流れていく。

 やがて、コーヒーに浮かぶミルクの模様を眺めるようにして、河添の方から口を開
いた。
「8年……か。早いものだな。俺たち……」
「……ええ」

 「典子は……いや、俺の方から話すのが礼儀だな」
河添は、くちびるの端に昔と同じ笑みを浮かべて、私と別れてからの8年を話し始め
た。

 彼らしくない。
緊張しているのか、その口振りは一言一言噛み締めるように重たかった。
だけど、次第にその口調は歯切れがよくなり、身ぶり手ぶりを交えて、まるで高校時
代の彼のように語りだしていた。

 黒くて丸い両目に、野心の光が見え隠れし始める。
同時に私の両目から、淡い恋心に浸る初心な17才の典子が、かき消されていく。

 河添の口から飛び出す『時田』って言葉に、心が震えた。
思わず立ち上がろうとする両足を、必死で押さえ続けていた。

 これは偶然なの?
それとも、これも神様の悪戯? 運命の悪戯?
ひどすぎる。こんな再会って酷すぎるよ。

 途中で勘のいい彼も、私の異変に気が付いたみたい。
話が一段落したところで『今度は典子の8年を聞きたい』って、私の話を聞く側にさ
っと立場を変えた。

 河添は冷めたコーヒーを口に含みながら、私のくちびるが動くのをじっと待ってい
る。
昔の彼女がどんな生活をしているのか、興味津津な顔で……

 私は彼が去った後の8年を、なにも隠さずに生まれたままの典子を見せるように全
部話した。

 愛する夫を亡くしたことも……
私達の地域を、河添が勤める時田金融の再開発から阻止しようと、運動していること
も。
それに、博幸が残してくれたお店を手放したくなくて、死に物狂いで働いていること
も。

 一気にまくし立てるように話していた。
言葉の端々に棘がでたまま、お腹から湧き上がるどうしようもない怒りを、目の前に
いる河添にぶつけたくて、多少声のトーンが上がるのも気にせずにしゃべり続けてい
た。

 そして全て話し終えて、ずるいけど……
女の涙って卑怯だけど……
泣いていた。
昔の彼の前で泣いちゃった。

 そんな昔話を、河添は目をつぶったまま聞いていた。
感情に任せて話す私に配慮して?
実は私の怒りの混ざった声を、子守唄に居眠りしてたとか?
ううん、そのどっちでもなかったみたい。

 気持ちを落ち着かせようとコーヒーカップを手にした私に、河添が視線を送ってい
る。
野生の獣のように爛々と輝かせた目。
欲しいモノ、手に入れたいモノがあるときにする、昔と変わらない彼の瞳。

 「典子、俺と組まないか?」
「な、なによ突然……?!」
「さっき話しただろう? 昇進という名の下の、俺に対する左遷を……」
「え、ええ……」

 私は曖昧にうなずいていた。
そう、この男の瞳に……それに、最初に語った意味不明な誘い言葉を察しかねて。
そして、時田という言葉で頭の半分が怒りで包まれながら聞いた、河添の話の内容。

 「俺は……典子、お前の全てを利用して、もう一度表舞台へ返り咲いてやる。いや
……それだけでは気が済まない。どんな手を使ってでも出世して、俺をつぶそうとし
た連中を、今度はこの俺が叩きつぶしてやる。
なあ、典子。そのためには、お前の協力が必要なんだ。お前の身体も! 心も! な
にもかもを! この俺に預けてくれ! 全てがうまくいった暁には……」

 「あ、暁には……?」
聞き返していた。
こんな恐ろしくて屈辱で、それでいて夢物語みたいな話。
無視して自分のコーヒー代だけ支払って立ち去ればいいのに。

 私は、金縛りにあったみたいに椅子に座り続けていた。
おまけに、興味ありますって顔で聞き返したりして……

 「典子の希望を全部叶えてやる。お前が愛するあの地区も、お前の大切な店も……
全部、この俺が守ってやる。だから、俺と組んでくれ。典子!」

 この人なら、あるいは……
私は、河添の野生児にも似た貪欲な瞳に、河添の言う全部を賭けてみたくなっていた。
99%正しい現実と戦って、負け続けて、最後の残り1%に典子の夢の全てを……
そのためなら、私……私の身体なんて……
こんな儚い夢に付き合える安っぽい心なんて……

 私は、大きく深くゆっくりとうなずいていた。
典子を見る男も、満足そうにうなずいた。

 でも不思議。なにも感じない。
なにも怖くないし、なにも恥ずかしいと思わない。
当然、後悔もしていない。

 だって、私はそれどころではなかったから。
心を覆うスクリーンを引き破ろうとする博幸。
彼を説得するのに、精いっぱいだったから。

 「ふーぅ。私のお話はこれでおしまい」
あら、あなた偉いわね。まだ起きてるじゃない。
押しピンひとつで済むなんて、なかなか感心感心。

 ところで、あなたが焼いたパンって、結局何個売れたのよ?
えっ? 100個焼いて、2個?! 
たったそれだけ……?
いったい、どんなパンを作ったのよ。

 ……なになに? 冷蔵庫に入れ忘れたマグロとイカの刺身を、パン生地に包んで焼
いたって?
中を割ってみると、糸を引いててジューシーで、吐き気がするほど美味って?

 やっぱりあなたって、表現がおかしいし、味覚もおかしいし……
それ以前に、なんてことするのよ!
『ベーカリー岡本』の名に傷が付いちゃったじゃない!

 それで、あなたの作ったゲテモノパンを買った、物好きなお客さんって?
えっ? 二人連れの男の人?
背が高くてハスキー声の人と、もっと身体が大きくて、首からビデオカメラをぶら下
げてた無表情な人?
胸に大きな名札をひっつけていて、『副島、横沢』って……?

 ふ~ん、名札まで持参って……
これは本家シナリオの越境攻撃では?って、典子、今変なこと考えて……ううん、な
いない。

 ……ということで、この辺りでは見掛けない人達ね。
……で、どうなったの? その人達?

 その場で完食して、感動のあまり口から泡を噴きながら倒れ込んで、究極のおいし
さを表現するように全身を痙攣させて、嬉し涙まで流していたって……?!
それって要するに……?!

 ダメ! 考えない! 私知らない! 関係ないから!
でも……どうしてかな?
なんだか私まで嬉しいな。
う~ん。なぜなんだろう?