『闇色のセレナーデ』
    
                           とっきーさっきー:作
第21話 転機の始まりは、波乱の予感


 「あ、あのぅ……私、ハヤシバラ文具から参りました……さ、佐伯と申します。ふ、
副社長の、あ、えーっと、緒方様はご在席でしょうか?」
「ハヤシバラ文具の佐伯様ですね。お待ちしておりました。只今係の者が参りますの
で、今しばらくお待ちくださいませ」

 声が裏返り、挙動不審100パーセントの卓造だったが、大手企業の受付嬢ともな
ると平然としたものである。
厚塗りメイクの営業スマイルが乱れることはない。
慣れた手付きで受話器を持ち上げると、手際良く要件を伝えた。

 「どうぞこちらにお掛けになって、お待ちいただけますでしょうか?」
棒立ちの卓造を見兼ねたのか、内線を掛け終えた受付嬢が手近なソファーを勧めた。
そして卓造は、壊れかけのロボットのように手足を揃えて歩き始めたのだが、その先
のソファーには先客の少女がひとり腰を掛けている。

 いつものダークネイビーなセーラー服から、黒色のレディーススーツに着替えた千
佳が、小さく手を上げて合図を送っているのだ。
その愛らしい顔には、やり手の女秘書を意識したのか、細身のフレームをしたメガネ
が掛けられている。

 「はい、おじさん。ハンカチ」
「サンキュー、千佳ちゃん」
ソファーに腰を下ろすなり、卓造は千佳から手渡されたハンカチで噴き出す汗を拭っ
た。

 それが女子学生から差し出されたモノだということも忘れて、顔から首筋を撫でま
わしている。
「だいじょーぶ? おじさん、息が荒いよ」
「あ、ああ……ここが小嶋技研の本社だと思ったら、ちょっと立ち眩みがして……面
目ない」

 「はあぁ、情けないわね。男だったら、もっとシャキッとしなさいよ。そんなんじ
ゃ、家族が1人増えただけでも養っていけないわよ」
「ん? 1人増えるって? 誰のこと……?」
「そ、そんなの知らないわよ。あっ、お迎えの人が来たみたいよ」

 聞き返した卓造に、千佳は素っ気ない素振りをみせるとそっぽを向いた。
拳ひとつ分だけジャンプするようにして身体を離すと、タイミングよく近づいて来る
ガタイの良い男に目を凝らしている。

 「ウソ?! どうして案内人が藤波さんなわけ?」
17才にして、人生を達観したように落ち着き払った千佳が、珍しく驚きの声を上げ
た。
常に驚きの毎日を送っている卓造は、千佳の目線を追い掛けて驚きの声さえ失ってい
た。

 「お待たせして申し訳ございません。どうぞ、こちらへ」
けれども当の藤波は、卓造と千佳を初対面のように扱うと、さっさと歩き始めた。
サングラスとマスクを外し、美男子然とした素顔を晒したままで黙々と進んでいく。

 後ろを振り返ろうともしない。
そして幾つかある棟を渡り歩き、すれ違う社員がほとんど消えた重役室が並ぶフロア
ーに辿り着くと足を止めた。

 「藤波さん、これって兄の指示で?」
「はい。和樹様は副社長と佐伯様の面会を段取りなさいましたが、それを私に監視す
るようにと」

 「それじゃ、あの男……いや、和樹君はまだ、俺のことを信用していないってこと
なんだな?」
藤波はレディーススーツを着込んだ千佳に困った顔をしてみせると、佐伯の問い掛け
に頷いていた。
和也に、余計なことは話すなと言われているのだろう。

 (なんてこった……千佳ちゃんをあんなに苦しめておきながら、それでもあの男は)
卓造の鼓膜には、凶器のようなバイブが千佳の股間を蝕む音が、今でもこびり付いて
離れない。
それを見て聞いて、嘲るように笑う和也の姿も。

 千佳は、息も絶え絶えになりながら屋敷に戻ってきたのだ。
それを成果に卓造は、同士と信じさせた和也にある願いを申し出たのである。

 『明後日、小嶋技研副社長である緒方と面会したい』と。
名目は、文具卸売営業マンとしての販路拡大と、和也には説明している。

 「ですが私の目には、純粋に文具営業で来られた佐伯様しか見えておりません。そ
の隣に誰がいるかは全然……」
「それって、藤波さん? わたしのことを……」

 しかし落ち込む卓造と千佳を救い上げたのは、藤波本人から飛び出した気の効いた
言葉だった、
監視役の美男子は、聞き返した千佳を見ることもなく卓造だけを見つめて、再び無言
で頷いていたのだ。
難病で入院している妹を、和也に人質同然で捉えられているにも関わらずにである。

 「済まない、藤波さん」
卓造は最敬礼で頭を下げていた。
渋る卓造に勝手に付いて来た千佳だったが、その浅はかな行為を後悔しているのだろ
う。
メガネの奥に覗く瞳を潤ませながら、一緒になって頭を下げる。

 「どうか、お気を付けて」
藤波に見送られた卓造は、目前に迫った小嶋技研副社長室を見つめると深呼吸を繰り
返した。
隣からは、空気の存在になったはずの千佳からも、可愛らしい呼吸音が聞こえた。
そして、重厚な趣があるドアを軽くノックする。

 「失礼します」
卓造は姿勢を正すとそのドアを開けた。

                
       
 この作品は「羞恥の風」とっきーさっきー様から投稿していただきました。