『ありさ 土蔵の濡れ人形  第二章』
 
                    Shyrock:作

第十九話(最終話)「さらば霧島屋」

 「誰ぞすぐにありさを呼んで来なはれ」
九左衛門は苦々しい気持ちを堪えて、店の者に指示をした。
ありさはすぐにやって来た。

 「はい、だんさん、ご用でしょうか」
「ありさ、こちらは道修町(どしょうまち)で薬問屋をやったはる山波淳三郎はんや。
挨拶しなはれ」
「えっ……山波淳三郎さん!?ようこそ、おいでやす」

 忘れもしまい、『山波淳三郎』と言えば例の投げ文に記されていたあの名前。
どうしてその人がここに現れたのだろう。
ありさは狐に抓まれたような面もちで淳三郎を見つめた。

 「あんさんがありさはんか?」
「はい、ありさです」
「ほう~、なかなかのべっぴんさんやな~」
「あ、ありがとうございます……」
「ありさ、今日からおまえは淳三郎はんところでお世話になるんや」
「えっ……!?どう言うことでしょうか……」
「霧島屋はん、それはわてからありさはんに説明させてもらいまひょか」

 淳三郎は柔和な笑みを湛えながら、九左衛門とありさの会話に割って入った。
「実はわてから九左衛門はんにお願いして、ありさはんにうちの店へ来てもらうこと
になったんや。急な話で悪いんやけど、今日からうちとこへ来てくれまっか?」

 「え?どうしてですか?どうして私が……」
「細かい訳はええやないか。とにかくわてがあんたを気に入ったちゅうこっちゃ」
「え?そうなんですか……?」
「霧島屋はんは呉服屋さんで、うちは薬問屋と、取り扱ってるしなもん(品物)はち
ゃうけど、あんさんの仕事はあんまり変わらへんはずや。悪いようにはせえへんから、
とにかくうちにきなはれ」
「は、はい……でも……」

 ありさとしては頻繁に倒錯行為、変態行為を強いてくる九左衛門に嫌悪感を抱いて
いたため、彼から離れることができるならどこでも良かった。
淳三郎の人となりはよく知らないが、決して悪い人間では無さそうだ。

 言い換えるならば、十六歳の少女の目にも、淳三郎が人品骨柄卑しからぬ紳士であ
ることは一目で分かった。
しかしありさは九左衛門が怖かったので返答に臆した。

 「……」

 気配を察した淳三郎はすぐに助け舟を出した。
「九左衛門はん、ありさはんを連れて帰りまっけど、よろしおまんな?」
「しゃ、しゃあないな……」

 「ありさはん、今日から呼び捨てするで。ありさ、九左衛門はんの許可が出たさか
いに、すぐに身支度をしなはれ」
「はい、分かりました」

 「荷物がようけあるんやったら、大事なもん(物)だけ今持って行き。残りのもん
(物)はうちの丁稚に取りに来させるわ」
「いいえ、荷物はそんなにありませんから、すぐに支度ができます」
「そうか。ほんならわてはここで待ってるわ。すぐに支度しといで」

◇◇◇

 ありさは道修町の薬問屋山波商店に来ていた。
淳三郎が優しい口調で語りかける。
「霧島屋はんへ奉公に上がってからずっと働き詰めやったんやろ?今日は一日ゆっく
りしたらええわ」
「ありがとうございます」

 「今日はゆっくりしたらええけど、奉公人の紹介だけ後でしとくわ。ありさ、奉公
に上がって一番大事なことは何やら分かるか?」
「仕事を早くきっちりと覚えることですか?」
「ええ答えや。せやけどもっと大事なことがある。何か分かるか?」
「……いいえ、分かりません……何でしょうか?」

 「仕事で一番大事なんは人や。つまり奉公人の名前を早く覚えることで、仕事の質
問もし易くなるから、仕事もはよ覚えられる」
「人ですか……はい、よく分かりました」
「ありさ、おまえはええ子やな」
「そんな……」

 褒められたありさは恥じらいの表情を見せた。
「若旦那さま……」
「何やそれは。気色悪いがな。浪花では若旦那のことは『わかだんさん』でええんや」
「はい、わかだんさん」
「ははははは~、その調子や」

 「ところで、わかだんさん」
「何や」
「わかだんさんは私のことが気に入ったと言っておられましたが、もしかして誰かが
私のことをわかだんさんに伝えたのではありませんか?」

 「ん……?ありさは勘がええな。実は丁稚の音松どんがわてに教えてくれたんや。
投げ文のことや、ありさが九左衛門はんに虐められてることを……」
「えっ!音松どんがわかだんさんに!?そうだったのですか……」
「絶対に九左衛門はんに言うたらあかんで。と言うても、ありさを九左衛門はんに会
わせることはもう無いから安心しぃ」

「ありがとうございます。わかだんさんは私が九左衛門のだんさんにどんな仕打ちを
受けていたかご存じなのですか?」
「いいや、詳しいことは知らんわ」
「すごく言い難いことなんですけど、わかだんさんにはお話すべきかと……」
「いらん」
「……」

 「話したくないことは話さんでええ」
「はい、分かりました……」
「それから、ありさがうちの店で働いてることを、親御さんにはわてから連絡してお
くから安心しいや」
「ありがとうございます」

◇◇◇

 ありさが山波商店に来てから二か月が過ぎようとしていた。
淳三郎や奉公人たちがいつも温かく接してくれるので日々穏やかで 九左衛門から折
檻を受けていた頃と比べてまるで天と地ほどの差があった。

 ありさの飾らない美しさと仕事に対する清廉恪勤な態度は、淳三郎に大いに気に入
られ『妻に迎えたい』と言う思いが日増しに高まっていた。

 そんなある日のこと。ありさは大番頭の指示で他の丁稚や女中たちといっしょに、
敷地奥にある土蔵に古文書を運び入れていた。
古文書と言っても書物や経理台帳ではなく、薬品の調剤記録を書き留めた書類の保管
作業であった。

 土蔵への搬入作業とは言っても大勢で入るため、不気味さは全く感じられなかった。
ありさが調剤記録簿を数冊抱えて右奥の棚に並べ終わった時、ふと見ると棚の横に小
さな木の扉があった。

 「ん……?」
掛け忘れたのか鍵は掛かっていない。
気になったので中に入ってみたが、床は四畳程の板の間になっており、ガランとして
いて備品らしきものはほとんどなかった。

 「この部屋は何に使っているんだろう……?」
ふと天井を見上げると奇妙なことに鉄製の滑車が設置されていて、そこから使い古さ
れた麻縄が垂れ下がっていた。




                  

   この作品は「愛と官能の美学」Shyrock様から投稿していただきました