『惠 一期一会』 Shyrock:作 第6話 国道176号線 女性に泣かれると男は困ってしまうものです。 相手がお客さんであってもそれは変わりません。 「あまり泣くと身体に毒ですよ。人生そんなに悪いことばかりじゃありませんよ。 そのうちきっと良いこともあるはずです」 「そやったら、よろしおすんやけどなぁ……」 「元気出さないと」 「そやねぇ……運転手はんのいわはるとおりかも知れまへんなぁ……元気出さんと あきまへんなぁ……」 「そうですよ。涙ばかり流していると余計に不幸の神様がつきまとってきますよ」 「えぇ?そうなん?そんなんいやどすわぁ」 「はははははは」 女性は私の笑い声に釣られてではありましたが、かすかな笑顔を取り戻してくれ ました。 その頃、タクシーは宝塚インターを過ぎて国道176号線へと入っていました。 国道176号線は、京都府宮津市を起点として兵庫県を経由し、大阪市北区の「梅 田新道」交差点に至る一般国道で、通称「イナロク」と呼ばれています。 「この辺はもう宝塚どすか?」 「はい、そうですよ。夢とロマン溢れる街宝塚ですよ」 「へぇ~?夢とロマンどすか?うまいこといわはりますなぁ」 「いいえ、私が考えた言葉じゃなくて、昔からそのように言われてるんですよ」 「へえ~、そうどすかぁ。聞くだけでなんか胸がキュ~ンとなってくる感じやわ ぁ~」 「はははははは~。そうですか?ロマンチストなんですね」 「そないなことあらしまへんけどなぁ、あはは」 宝塚は花と歌劇が有名で、「すみれの花咲く頃……」と歌われた歌劇団の創立は かなり昔にさかのぼり、大正2年に宝塚市に生まれました。街は六甲山麓の北東に 位置し、中央には武庫川が流れ、環境的にも大変恵まれた立地と言えます。 都心には温泉リゾート旅館が軒を連ねていたのですが、阪神大震災でかなり減っ てしまったようです。 私は落ち着いた感じの和の佇まいの旅館に、その女性を案内することにしました。 心の傷を癒すには、その方が良いのではと思ったからです。 旅館の前にクルマを止めて、女性は待ってもらって私だけ旅館に入っていきまし た。 飛び込みでも宿泊が可能かを確認するためです。 すぐに和服姿の仲居さんが出てきました。 「おこしやす~。え~と、今日お泊りのお客さまですか?」 「いいえ、予約はしていないのですが、1泊できますか?」 「ありがとうございます。お部屋は空いてますよ。お泊りはお客様お1人ですか?」 「いいえ、私じゃないんです。今、表で待っておられます」 「ああ、そうなんですか。それはそれは」 仲居が迎えに行くため表に出ようとしたが、それよりも早く私が出て行きました。 「この旅館でよろしいですか?部屋は空いているそうです。タクシー料金を沢山 いただき過ぎなので、今から計算して残りをお返ししますので、少しだけ待ってて くださいね」 私は女性にそう告げて電卓を叩き始めました。 すると、女性はじっと私を見つめ、 「残りは返さんでもかまいまへん」 「いや、そういう訳には行かないですよ」 「それより、運転手はん」 「はい?」 「すんまへんけど、もうちょっとうちに付きおうてくれまへんか?」 「えっ……?」 「あかしまへんか?」と真剣な表情で懇望してきました。 この作品は「愛と官能の美学」Shyrock様から投稿していただきました |