『見果てぬ夢2』

                           とっきーさっきー:作

第26話 懐かしい香り

 篠塚美里の視点

 美里って、なにしに来たんだろう?
どうして、ここへ来ちゃったんだろう?

 涙のせいで目の前が霞んでいるのに、狭い廊下を全力疾走していた。
両腕を振りながら、悪いフォームのお手本のように頭を激しく揺さぶっているのに、
涙が乾いてくれない。
まぶたの裏にこびり付いた画像も消えてくれない。

 河添の手のひらが、典子お姉ちゃんのお尻を触っている映像が。
河添の指がお尻の割れ目に潜り込んで、あっちの穴をまさぐっている映像が。
それなのに、典子お姉ちゃんの鼻にかかったエッチな声も。

 信じられないし。こんな男と女の関係なんて考えたくもないよ。
美里は安易な正義感を振りかざすお子様だから。
独りよがりで身勝手な甘ちゃんだから。

 だから、部屋の中でじっと美里の帰りを待ってくれた信人に、たった一言。
「帰るわよ」って。
せっかく、きつねうどんを二人前オーダーしてくれたのに、箸も付けずに。

 そして、その日を境にわたしは典子お姉ちゃんのことを封印した。
昔の美里のように、学校では優等生の仮面を付けて、軽くクラブ活動で汗を流して、
そのまま信人とデートをするの。
なにも考えずに。

 1日目……2日目……3日目……4日目……
次第に重くなる心と身体。
おバカなくらい明るく振舞っているのに、身体が鉛のように重たいの。
胸の中に大きな穴が開いて、冷たい風がヒューヒューって音を立てて流れていくの。

 5日目……
わたしは学校をズル休みしていた。
風邪で熱があるってウソの連絡をして、制服姿のまま平日の街を歩いていた。
別に当てなんかない。
ただ、足の赴くままに風に流される風船のように歩いていた。

 「あれ? どうしてここに……?」
それは、昭和の面影を色濃く残した街並み。
そこは、車がすれ違うのがやっとの細い路地。
懐かしい風。懐かしい空気。懐かしい香り。
美里の幸せだった頃の想い出がいっぱい詰まった世界。

 その中を重りの解かれた足で歩いていく。
冷たい風が止んで、暖かいものに包まれた胸に空気をいっぱいに溜めてみる。

 「ふふ……帰ってきちゃった……」
『ベーカリーショップ 岡本』っていう、縦長で赤字に白抜きの看板。
入り口の引き戸に糊付けられた『おいしい焼き立てのあんぱんあります』の張り紙。

 わたしは立ち止まっていた。
溜めていた空気を吐いていった。
そして、涙のせいで目が開かないのに腕を伸ばした。
懐かしい感覚だけを頼りに、引き戸を開いていた。

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 岡本典子の視点

 「すいません……美里です。あの……典子お姉ちゃん……いますか?」
遠慮気味に引き戸を開ける音と、それに負けそうなほど細い少女の声。
でも、その声の主を私は知っている。

 美里ちゃん、来てくれたんだ。
私は慌てて立ち上がると、お店の方へ向かった。
あんな事があったのに、どんな表情を作って会ったらいいの?
一瞬悩んでみる。
悩んでみて、それでも美里ちゃんに会えるのが嬉しくて、いつものようにホッペタの
筋肉を緩ませた。

 「いらっしゃい、美里ちゃん。さあ、どうぞ上がって」
ホッペタを緩ませていて、ほっとする。
だって彼女、泣き顔だったから。
もし真顔で接したりしたら、典子も一緒になって泣いちゃっているから。

 ふたりだけの無言の時間が流れた。
テーブルを挟んで美里ちゃんとわたし。それに琥珀色をした麦茶が注がれた2組のガ
ラスのコップ。

 「あのね……典子お姉ちゃん」
美里ちゃんが私の名前を呼んで、口を閉ざしてしまう。
乾いた唇を舌先で潤わせながら、続きの言葉を探している。そんな感じ。

 「あのね……美里ちゃん。私の話を聞いてくれる?」
私は美里ちゃんの言葉をそっくりマネすると、静寂を破るように口を開いていた。
黙って見つめる彼女の瞳に、あの時の惨めな典子の姿を見た気がして。
彼女のその顔に、部屋に乗り込んできた凛々しい彼女の姿が重ね合わされて。

 なにもかも、言葉にしていた。
私と拓也の関係。私と博幸の夢。
そのために、私がしてきたこと。夢を守って現実のものにするために、自分の身体を
男に捧げたこと。
今も言われるがままに捧げ続けていることを。

 もう隠したりしない。
美里ちゃんが慕ってくれた典子は、こんな性に溺れた乱れた女だって思われても構わ
ないから。
目を細めて軽蔑されるのだって、覚悟しているから。

 それなのに美里ちゃんは、黙って耳を傾けてくれた。
じっと目を逸らさずに、黒目がちの瞳にありのままの典子を焼き付けるようにして。

 私は話し終えると、ふっと息を吐いた。
ものすごく自分勝手だけど、心の靄が晴れて両肩が軽くなってる。
そして、ガラスコップの中で、氷が麦茶と戯れるように音を立てた。

 「あっ、もうこんな時間。そろそろ帰らないと」
美里ちゃんは柱時計に目をやると立ち上がった。
「帰るの? 美里ちゃん。もう少し、ゆっくりしていったら」
「ううん、典子お姉ちゃん。もう、充分にまったりさせていただきました」

 浮かべたのは、昔よく見せてくれた懐かしい笑顔。
あの時と同じように鼻までくんくんさせながら、美里ちゃんはお店の方へと向かって
くれた。

 「すぅー、はぁー。パンの焼けるいい香り。ここに立っていると、ホント癒されま
すよね」
空になったままのガラスケースの前で、美里ちゃんは深呼吸を繰り返すと、お店の中
をぐるっと見回している。
私もつられるように見回した。

 「ありがとう、典子お姉ちゃん。それと……ごめんなさい」
懐かしい笑顔が、まるで天使みたいな癒しの笑みに変わった。
その言葉を残して、美里ちゃんは帰って行った。
私は、その大人びた後ろ姿に、なにも声を掛けられずに見送っていた。