『球 ~鏡~』
 
                    Shyrock:作

第12話 吉野の不安

 塚野との売買契約成立後、早速屋敷の改修工事が行なわれた。
外見は一見豪華だが各所に経年による劣化がみられ、販売するためにはかなり手を入れる必要があった。

 そんな中で、例の鏡の撤去について議論がなされた。
花山が所属する篠塚不動産販売は『鏡はアンティックで重厚な逸品であり、販売戦略上残置すべきだ』と主張し、一方、吉野が所属するスターハウスは『いわくつきの家具でもあり残置することは販売上マイナスだ。即時撤去すべき』と主張したため、両社の意見は真っ向から対立した。

 しかしその結末は、両社の力関係から考えて火を見るより明らかであった。
花山が所属する篠塚不動産販売の主張どおり、『鏡は現状どおり残置』という結論に達した。

 後日、吉野は花山との雑談の中でまたもや鏡の一件を切り出した。
「私、あの鏡のことが気になって仕方がないのですが……」

 「え~? まだ気にしてるの? あんな話、気にしちゃダメだよ。失踪なんて世間ではたまにあるし、ましてや鏡の向こうに消えてしまったなんて話、僕はやっぱり信じないよ。あんまり変なことを言ってると、噂が広がってあの屋敷が本当に売れなくなってしまうよ。ここは黙っておくのが一番。ね? 吉野さん、そう思わない?」

 「はい……そうですけど……でもねぇ……」
「この件は絶対にお客さんに話しちゃいけないよ。いいね」
「はい、そうします……」

 花山からの忠告もあり、吉野は沈黙を守らざるを得なかった。
それが両社の合意点であり販売方針なのだから。

 しかし吉野としては心の内で、あの屋敷を購入希望の顧客には密かに告げようと考えていた。
たとえ噂話であったとしても、前住者が語ったことは紛れも無い事実なのだから、正直に伝えるべきではないかと。

 そして屋敷の修復工事も無事完了し、モデルハウスオープン後、最初に訪れたのが球たちであった。
吉野は球たちがモデルハウスに訪れてから、頃を見計らって鏡の一件を話そうと思っていた。

 ところがモデルの案内中に事務所から急用が入り、球たちに説明をする前に事務所に戻らざるを得なくなってしまった。
吉野はモデルハウスに置き去りにした球たちのことが気がかりだった。
大切な客を置き去りにしてしまった非礼を詫びるのは当然のことだが、それよりも鏡のことが気になって仕方がなかった。

 おそらく何も起きないだろう。いや、そう信じたいのかもしれない。
家政婦が失踪したことは事実だとしても、鏡に吸い込まれたという超現実的な話など誰が信じるだろうか。

 それに家政婦はつねに「消えてしまいたい」と漏らしていたが、今モデルハウスに来ている客には何ら関係のないことである。
つまり消えなければならない理由などまったくないわけだ。

 (だからきっとだいじょうぶ……)

塚野から聞いた話があまりにも衝撃的だったため、少し意識過剰になっているだけではないか。
吉野は自分にそう言い聞かせながら、モデルハウスの玄関扉をゆっくりと開いた。

 ギ~ッ……

 ふと玄関土間を見ると男女の靴が揃えられている。
まだ球たちが中にいるという証だ。
吉野は安堵の溜息をつきながら、中にいる球たちに自分が戻ったことを告げようとした。

 「お客さま~。遅くなって申し訳ありません。ただ今戻りました~」
返事がない。
「……? お客さま~。いらっしゃいますか~?」

 やっぱり返事がない。
「おかしいなあ……? どうされたのかしら……? 二階に上がっておられて聞こえないのかな? お客さま~! ただ今戻りました~! 遅くなって申し訳ありません~!」

 いくら呼んでも返ってくるのは静寂だけだ。
おかしい。まったく気配がない。
そのとき、ふと吉野の背筋に悪寒が走った。

 (まさか……)
血相を変え屋敷内に駆け込む。
「お客さま~! いらっしゃいませんか~!?」
顔は真っ青になり、唇をわなわなと震わせている。

 「まさか……!」
手前の部屋からノックをしながら開けていく。
居室、リビング、キッチン、トイレ、それにクローゼットにいたるまで。
一階をすべて探してみたが、球たちの姿はなかった。

 「もしかして二階かな? お願い! 二階に居て! ベッドがあるからもしかしたらいちゃついているのかな?きっとそうだわ!」

 二階にモデル用家具としてベッドを配備している。
吉野が出かけたことで二人きりになり、愛し合っているのかもしれない。
わずかだが過去そんな客もいた。
今この状況を考えた場合、吉野はむしろそうであって欲しいと願った。

 吉野は二階への階段を急いで駆け上がった。
そして一階と同様に部屋をノックしながら在否を確認していった。

 鏡のある部屋以外すべて確かめたが、球たちはいなかった。
吉野は驚愕と恐怖に包まれた。
すでに顔色は失われている。

 確認していないのは鏡のある部屋だけだ。
吉野は震える手でドアをノックした。
「お客さま……いらっしゃいますか……?」


                

   この作品は「愛と官能の美学」Shyrock様から投稿していただきました