『ありさ 割れしのぶ』 Shyrock:作 第八章 一通の手紙 6月下旬、いよいよ夏到来を思わせる暑い夜、ありさは男衆をひとり伴ってお茶 屋に向った。 俊介の屋形訪問の一件以降、女将は警戒を深め、ありさの行く先々に常に男衆を そばに付けることにしていた。 万が一、またまた沮喪があれば、上得意の丸岩に申し訳が立たないと思ったのだ。 しかし幸いなことに、同伴の男衆はありさが最も好感を持っている北山春彦と言 う30代半ばぐらいの男であった。 ありさは北山に気軽に話し掛けた。 「暑なりましたなぁ~」 「ほんまどすなぁ、そうゆ~たら、ぼちぼち祇園さんどすなぁ~」 「ほやね~、また忙しなりますなぁ~」 「ありさはん・・・」 「はぁ、何どす?」 「あんまり思い詰めんようにせなあきまへんで。身体に毒おすえ」 「あ、北山はん、おおきに~、うちのことそないに気にしてくれはって・・・」 「ありさはん、近頃、ちょっと痩せはったみたいやし・・・」 「うん、そやねぇ、ちょっと痩せたかもしれへんなぁ」 「もし、わてにできることあったら何でもゆ~てや。微力やけど力になれるかも知 れへんし」 「おおきに~、そないにゆ~てくれはるだけでも元気が出て来るわ。嬉しおすぅ~」 ありさの口元から久しぶりに白い歯がこぼれた。 ◇ それから3日後、“織田錦”の廊下で、ありさは北山を呼び止めた。 「北山はん、ちょっとちょっと・・・」 「はあ、なんどすか?」 ありさは真剣な眼差しで一通の封書を北山に差し出した。 「北山はん、あんさんを見込んで頼みがあるんどす。この手紙を例の本村はんに届 けて欲しいんどす。本村はんは堀川通り蛸薬師に住んだはります」 「えっ!ありさはん、もしかして・・・あんさん・・・」 「しっ・・・大きな声出したらあきまへん。お願いできますやろか」 北山はありさの本村への想いが並々ならぬものと知っていた。 そして今、ありさが重大な決意をしたことも直感的に感じ取ったのであった。 「はぁ、よろしおます。本村はんのとこまで必ず届けて参じます」 「ほな、頼みますわな・・・」 「はぁ、ほんならすぐに」 北山は織田錦を出て、早速駆けて行った。 ◇ 『俊介はんへ ご無沙汰しています。この前のお怪我は大丈夫どすか。 うちは相変わらずの毎日を過ごしております。 俊介はんとお会いしたいけど、ずっと見張りをされてて、 身動きが取れん状態なんどす。 せやけど、どうしても俊介はんにお会いしたいんどす。 もう一度だけお目にかかって、ほんで俊介はんのこと、 諦めよう・・・と思とります。 今夜はお店もおへん。夜の十時に平安神宮の鳥居のとこに 来てくれはりまへんか。 これがうちの最後のお願いどす。 せやけど、もしも俊介はんが来てくれはれへんかっても、 決して恨んだりはしまへんよってに。 うちは俊介はんを生涯お慕い申上げております。 ありさ』 俊介は北山が去った後、直ぐに手紙を開いた。 真っ白な便箋にかぼそい文字がしたためられている。 一箇所だけ文字が滲んでいるのは、おそらくありさが流した涙のせいだろう。 ついにありさは俊介との決別を覚悟したようだ。 俊介は手紙を何度も読み返しているうちに、ありさの純粋で一途な想いに心打たれ た。 俊介はついに落涙してしまった。 (ありさ・・・君に会いに行くよ・・・。ありさ、君を失いたくない・・・絶対 に・・・) ◇ ありさは玄関先に人気がないことを確かめて、着の身着のままの姿で織田錦を出 て行った。 急ぎ足で木屋町から三条を通り平安神宮へと向った。 (お母はん、堪忍どすぇ・・・、うち、もしかしたもう帰ってけえへんかも知れ へん。あんだけお世話になっておきながら、お返しのひとつもせんと屋形を勝手に 飛び出したうちを堪忍しておくれやす・・・。うちは俊介はんの元へ参じますぅ・ ・・) ありさの頬には幾筋もの涙が伝っていた。 まもなく息を切らしたありさが平安神宮に到着した時、既にそこには俊介の姿が あった。 「俊介はん!」 「ありさ!」 駆け寄るありさ、受け止める俊介・・・ふたりは人目をはばかることな硬く抱合 った。 「ありさ、会いたかった・・・」 「俊介はん、うちも会いとうて、会いとうてしょうがなかったわ・・・」 「ありさ、もう君を放さないよ」 「おおきにぃ、すごう嬉しい・・・。そやけどそれは無理なことやおへんか?」 「無理なんかじゃない。僕はどんなことがあっても君を放さないよ。でもこのま まだと、彼らは必ず君を連れ戻しに来るもの。捕まると君がどんな目に遭うやら・ ・・。だから決めたんだ。君を連れてこの京都から出て行こうと」 「えっ!なんどすってぇ!?そんなことしたら、俊介はん、大学に行かれしまへ んがな!」 「それは解ってる。解った上で言っているんだ。勉強なら別にK大へ行かなくても できるし・・・。僕は君を選んだ。僕は君なしでは生きて行けないことに気がつい たんだ」 俊介の言葉を聞き、ありさは嬉しさに胸の震えが治まらず、袂(たもと)で目頭 を押さえて泣きじゃくった。 「俊介はん、嬉しおすぅ~、うち、俊介はんとやったら、どこへでもお供します ぇ~」 「ありがとう、ありさ。でもこの先、決して安楽なものじゃないかも知れないけど いいんだね?」 「そんなん、かまへん。うち、俊介はんとやったら地獄の底でも、どこでも付い て行くぇ・・・」 「そうまで言ってくれるんだね。嬉しいよ」 俊介は優しく微笑んでありさの頬に唇を寄せた。 「ありさ、それじゃ今からすぐに夜汽車に乗って遠くへ行こう」 「え~っ!ほんまどすか~?」 「うん、本当なら君も僕も一旦戻って荷物をまとめたいところだろうけど、そん なことをしていたらきっと捕まってしまうと思うんだ。ある程度のお金も用意した から当分はしのげると思うし。さあ、今から京都駅に向かおう。最終の汽車にまだ 間に合うはずだから」 ふたりは急ぎ足で、一路、京都駅に向かった。 京都駅に着いた時には23時20分を少し廻っていた。 「ありさ、だいじょうぶかい?」 俊介は汗の滲んだありさの額を手拭いを出して拭ってやった。 時刻表を見た。 富山行きの汽車に乗って途中の福井で降りるつもりだ。 発車は23時30分。俊介は急いで切符を求め改札をくぐった。 『富山行きの汽車はまもなく発車します~。お乗りの方はお急ぎくださ~い~』 ありさ達が汽車のデッキに脚を掛けようとした時、遠くからふたりを呼び止める 声がした。 この作品は、愛と官能の美学 Shyrock様から投稿していただきました。 |